不惑ワクワク
四十にもなると(四十二だというのに「四十にもなると」などと書き出すのがそもそもその証拠なのだが)、つい自分の歳を忘れてしまう。初老祝いという言葉に驚いたのがつい先日のようだ。初老というのも、たぶん(おそらく、思うに、願わくは)まだ春ともいえぬ雪のさなかに立春が来て、やがて来る春を予感させるように、やがて来る老いを予感させるための節目なのだろう。
不惑を境に、たしかに物に惑わなくなった。それと引き換えに、月日が猛烈なスピードで過ぎ去って行くようになった。思えば小学校に通っていたときは、放課後、日が暮れるまでの間に、毎日七つ八つもの遊びに夢中になっていたものだ。ようやく十歳くらいになってから、今日という一日にかならず終わりが来るということを理解して、低くなった太陽にさびしさを感じるようになった。週に一度のテレビ番組が待ちきれなかったのは、中学生の頃。上弦の月を見るたびに、なんとまた一箇月過ぎたのかと驚いていたのは、三十くらいの歳だった。今は、月すら見ずに月が変わってしまうこともある。
いつか(「いつか」って、いつだかとっくにわかっているわけだが)五十になったときには、さすがに今とは少し違った自分になっていることだろう。今は、一年二年は誤差の範囲といった心構えで、ともかく今やりたいことをやっている。いや、やっていると胸を張って言えるわけではないが、やりたいものだと思っている。これまでに生きてきた四十年(さよう、一年二年の誤差は無視しよう)に比べれば、学年末試験があるわけじゃなし、少々時間の無駄遣いをしても、好きなことで何かを残せるように働いていたい。一年やそこらで、急に何かが実るとも期待しないが、一年やそこらで、急に心身が衰えるとも思わない(本当は衰えているんだろうって? いや、まだまだすべての機能は――老眼を除き――完璧に作動しておりますよ)。つまりは、一年が短く感じられるようになった分だけ、一年が惜しくなくなったということだ。だが、もう少し歳をとったら、今度は、残り時間を意識するようになるだろう。
そうなったときに、焦るだろうか、腹をくくるだろうか、悟りを開くだろうか、今はまだわからないが、その節目が、まあ、やっぱり、五十だろうな。あと八年足らずの間に(え、八年?)……げげん、よく考えたら、今は四十三だった。
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