この「講座」は、@nifty「翻訳フォーラム・アドバンスメント館(FTRAN2)」の第13会議室「翻訳JOB応援会議室」にて連載されているものを、著作者の許可を得てウェブ上に転載したものです。 この「講座」内容に関連する質疑応答は、@nifty「翻訳フォーラム・アドバンスメント館(FTRAN2)」の第13会議室「翻訳JOB応援会議室」にて受け付けております。 講座内容についてのご質問がある方は、どうぞ、上記会議室においでください。 |
翻訳会社も翻訳者も、レートについていろいろと思うところがあるようです。翻訳者の側には、「適正なレートがもらえない」という嘆きがよくあります。「案件の難易度をレートに反映して欲しい」という声もよく聞きます。一方で、「あとの手間をコストに換算して考えたら、翻訳者への支払いレートをもっと下げないとやっていけない」という翻訳会社の経営者もいます。
現状は不適切だと考えている点ではみんな同じですが、適正なレートを実現する変化の方向は大きく異なっています。
適正なレートとはいったい何なのでしょうか。
「適正」というのもわからない言葉で、その人の立場によって意味するものが大きく異なります。たとえば、クライアントや翻訳会社にとっては安い方が適正で、翻訳者にとっては高い方が適正かもしれません。業界相場を適正かどうかの判断基準とする人もいれば、翻訳者が暮らすのに必要な額を稼げるレートが適正であるという人もいます。みんな、一面の真理を持つ考えです。
私は、訳文の品質と原文の難易度に応じた料金が適正だと考えます。つまり、品質の高い訳文を作れる翻訳者ほど、また、難度の高い案件ほど、レートは高くなっていいはずだと思います。
ただし、料金というのは誰かが決めるものでも、ましてや誰かに決めてもらうものでもありません。「6.5 レート値上げ交渉」でも書いたように、本来、料金を払う側と受け取る側の要求をぶつけ合って決めていくものです。このような市場原理が値決めの基本ですが、クライアントと翻訳会社の間で翻訳料金を決める際には、市場原理に加えて複数の翻訳会社の間の競争という要因が入ってきます。
ビジネスという現実の中では、後述するように、難易度を料金に反映させるのはなかなかに難しいことです。仮に反映させられる場合でも、非常に難度の高いものでないと反映させることは困難でしょう。
ともかく、品質と難易度とはどういうものか、そして、市場原理の中で品質や難易度がどのような役割を果たすのかを、まず検討してみる必要があります。
もちろん、「品質」についても「難易度」についても、さまざまな意見・考え方があります。品質についてはすでに検討しているので(「6.1 高品質化」など)ここでは割愛し、難易度とそれに応じた料金という問題を中心に考えてみます。
★翻訳者の能力と質
翻訳者の能力や質には、歴然とした差があります。差があるから、たとえレートが高くても、一部の人のところに仕事が集中するのです。
能力別の人数分布をみると、能力・質の高いトップ翻訳者は少なく、中堅、駆け出しと能力・質が下がるにつれて多くなります。つまり、縦軸に能力・質、横軸に人数をとるとピラミッド型になるわけです。
★難易度
ある人にとって難しいと感じるものも、他の人にとってはやさしいと感じられることがあります。そのためか、「難易度は主観の問題だ」といわれることがあります。
でも、私は、客観的な原文難易度の差はあると思います。ある案件を難しいと思うかやさしいと思うかを1000人の翻訳者に聞いたとき、「100人が難しい、900人がやさしい」と感じる案件もあれば、「999人が難しい、1人がやさしい」と感じる案件もあるはずです。これは、客観的な難易度が違うのです。
ちなみに、こういう差があることは、その辺りにころがっている日本語の文書を見ても明らかです。一般紙の経済記事と経済新聞の経済記事、経済専門書、学術論文を見比べて、「その内容理解の難易度は同じである。違うと感じるとすれば、それは主観の問題だ」という人はいないでしょう。
★難易度と料金
翻訳者の能力と人数の関係を示すさきほどのピラミッド構造から推測されるように、客観的な難度が低いほうでは、難易度に多少の差があってもその市場性に違いはありません。いずれにしても、その案件をこなせる人がたくさんいるからです。このような場合には、多少、難易度が違ってもレートは同じとなるのが市場原則です。しかし、難度がある程度よりも難しくなると、その案件をきちんとこなせる人の数はどんどん少なくなります。「私が断ったら、ちゃんとできる人はいないでしょ」状態になるわけです。このような場合には、レートにその難易度を反映させるべきでもあり、また、ある程度は反映させることが可能だと思います。
★難易度に応じたレート−現実は?
現実は、どうなっているでしょうか。
翻訳雑誌などのアンケートで翻訳会社から翻訳者に支払われるレートを見ると、最高レートが最低レートの倍には達しないことが多いようです。逆に言えば、品質や案件難易度の差として、7〜8割増しくらいの差はついているわけです(料金が高い人のところには難度の高い案件がいくことが多い)。
一応の差はついているのに不満を持つ人がいるのはなぜでしょうか。
ひとつは、翻訳会社−翻訳者のレートが固定されていて案件ごとに上下しないのが普通だからでしょう。「今回は難しい案件なので」とページあたり100円でもいいから上がることがあれば納得する人も多いはずなのですが、コーディネーターにそのような権限を与えている翻訳会社はごく少数しかありません。
また翻訳者側も、自分が難しいと感じるものが難しい案件、やさしいと感じるものがやさしい案件であると思う翻訳者が多いように見受けられます。専門をきちんと持っている翻訳者であればあるほど、自分がやさしいと感じるものは客観的な難度が高く、他分野の翻訳者や駆け出し翻訳者には難しく感じられることが多いはずです(もちろん、専門にはまった上で難しいと感じるものが一番難しいわけですが)。それなのに、「これは得意分野だから安くても……」というような話や「違う分野で大変だったから少し多くもらいたい」といった話を聞くことがけっこうあります。これは市場原理と関係のない理由ですから、こういった基準に基づく「難易度を料金に反映」は難しいのがとうぜんです。
一方、ビジネス現場では、必ずしも案件の難易度が考慮されないという現実があります。むしろ、他社との比較のほうが重視されることが多いのです。
クライアントには、ふつう、複数の翻訳会社が出入りしています。そのうち1社だけが難易度を正しく判定して高い料金を要求しても、他社が安値のオファーを出すと仕事はそちらに流れることが多いというのも、ビジネス現場の常識です。ほとんどの翻訳会社が正しく判定してネゴをすれば改善されますが、残念ながら、それが実現不可能な希望であることは、以下のことから明らかです。
まず、翻訳会社の営業担当者に、料金に反映されるべき高いレベルの難度の差違を判定する能力はないと考えるべきです。翻訳者1000人中999人が難しいと感じる文書の難度を正確に判定できるためには、トップ翻訳者と同等の力が必要です。でも、それだけの力を持っていれば、トップ翻訳者として活躍していて翻訳会社の営業なんてしていないでしょう。トップと同等とは言わなくても、せめて中堅クラスの難易度が判定できる力があれば状況は大きく違うと思うのですが、そのレベルの判定も困難なのが実状だと思います。
難度を判定できなければ、高い料金となる理由をクライアントに説明できず、専門文書と一般文書の差がせいぜい2〜3割しかないとか、一応、専門文書と一般文書という区別は作ってあっても、実際には一般文書料金で専門文書を受けてしまったりするということになるのもしかたがありません。
そういう翻訳会社が多い限り(この状態が改善される可能性は非常に低い)、クライアント−翻訳会社間の取引料金が難易度を正しく反映するようにはなりません。そして、クライアント−翻訳会社間の料金が難易度反映型にならなければ、翻訳会社−翻訳者のレートが難易度反映型になるのも難しいということは当然でしょう。
★翻訳者として取りうる対策
翻訳者としてはどのようにしたらいいでしょうか。
まずは、客観的な難度を正しく把握できる必要があります。そのためにも、自分の実力が駈けだしクラスなのか中堅クラスなのか、トップクラスなのかを把握しなければなりません。料金の上乗せを要求できるほど高い難度の案件がこなせるためには、トップクラスか、少なくとも中堅クラスの上位の実力が必要です。自分は駈けだしから中堅クラスだと思うならば、難度を反映したレートを要望する前に実力を高める努力をすべきだと思います。
トップクラスの翻訳者であれば、客観的な難度が非常に高い案件に対して、ダメもとで「難度が高いので、今回の案件だけ、レートを高くして欲しい」と言い続けてみるという方法が考えられます。その案件だけといっても、なかなか聞き入れてもらえないはずです。場合によっては、「高くしてもらえないなら引き受けられない」というくらいに強気に出てみる必要もあるでしょう。ただし、客観的難度の判定が間違っていて「私が断ったら、ちゃんとできる人はいないでしょ」状態ではなければ、「それなら他の人にお願いします」となるだけです。その後もレート上乗せの要求が通らないだけでなく、心証を悪くする結果にもなりかねません。リスクのある方法ですから、客観的難度を十分に検討した上で慎重かつ大胆に行う必要があります。
前述のように、クライアント−翻訳会社間の翻訳料金が難易度反映型とならないのは、営業最前線にいる翻訳会社の営業担当者に難易度を正しく判定する力がないのも一因です。ということは、難易度がよく分かる人、つまり、翻訳者本人が営業を行えば改善される可能性があるわけです。クライアント直接取引ですね。
駆け出し翻訳者が翻訳会社からもらうのは英日で仕上がり日本語400字1,000円ちょっとだったりします。こういう案件のクライアント−翻訳会社の値段は2,000円前後のことが多いでしょう。翻訳会社から2,000円ももらう優秀な翻訳者に出てくる案件なら、クライアント−翻訳会社の値段も4,000円前後となっているはずです。これに対して、トップ翻訳者の中には、クライアントから1枚5,000円以上という高値で受注する人もいます。
このように、翻訳会社が通常受注するよりも高い値段で直接受注できる理由は、トップ翻訳者ならば自分自身で案件の難度を正しく判定し、必要なネゴができるからだと思います。もちろん、高値に伴って重くなる責任を背負う覚悟が必要です。しかも、案件の内容は、非常に難しいものなのです。また、安値勝負をかけてくる翻訳会社がある場合、比較が困難な品質面で差別化するためには、そうとうの営業努力が必要となります。
なお、このような場合に、翻訳会社からもらうレートよりも多少なりとも高ければいいという考えで臨むべきではありません。この連載でも何度も繰り返していますが、回り回って自分や同業翻訳者全体の首を絞めることになるからです。たとえば、翻訳会社から2,000円もらっている程度の案件に対し、翻訳会社−翻訳者のレートよりは高く、クライアント−翻訳会社の料金よりは安い3,000円といった単価とし、安値をウリに営業すべきではないのです。その価格に対抗するために翻訳会社が値下げすれば、自分自身を含む翻訳者への支払レートを下げられることになります。このような価格設定は、難易度を反映しない価格設定の最たるものと言えます。
結局のところ、翻訳会社に営業のすべてと責任のかなりの部分を負担してもらい、楽して高いレートを取るというのはムリなんですね。
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