この記事は、『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)に連載されたものを、編集部のご好意により許可を得て、著者の責任において転載しています。

『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)1999年5月号

文科系のための科学講座

環境科学編

【5】

地球環境(2)酸性雨

 きれいな空から降る雨は、pH 5.5 の弱酸性である。雨滴に大気中の二酸化炭素が溶け込んでいるため、水素イオンが解離して弱酸性になっている。それよりも酸性の強い雨を、酸性雨という。

 たったこれだけの文章をかみくだいて説明しようとしたら、高校で習う化学の知識をほとんど総動員しなくてはならない。まず pH だが、pH(水素イオン指数)とは溶液中の水素イオン濃度を測る尺度である。酸性でもアルカリ性でもない中性の溶液は pH 7 であり、pH の値が1だけ小さくなると、水素イオン濃度は10倍に高くなる。pH が7未満なら酸性、7より大きければアルカリ性とだけ、覚えておいてほしい。二酸化炭素が水に溶けると、反応して炭酸になるが、炭酸は水素イオンと炭酸イオンに分かれたがるため、溶液中の水素イオンが増えて酸性になる。同様に、二酸化イオウが水に溶けると、反応して亜硫酸になるが、亜硫酸は水素イオンと亜硫酸イオンに分かれたがる傾向がもっと強いため、溶液中の水素イオンがもっと増えて、もっと強い酸性になる。非常に古典的な言い方だが、大雑把にはそういうことだ。

 雨を酸性にする物質は、どこから来るのだろうか。重要な一次汚染物質は、窒素酸化物(一酸化窒素と少量の二酸化窒素)、イオウ酸化物(二酸化イオウ)、炭化水素などである。いずれも都市、工場、自動車などから排出される。一酸化窒素はすぐに酸化されて二酸化窒素になり、風下で都市型の汚染を引き起こす。やや時間が経つと、光化学反応が起こり、オゾン、過酸化水素、PAN、OHラジカルといった、強い酸化作用をもつ気体(酸化性ガス=オキシダント)が生成する。それらに酸化されることにより、二酸化窒素は硝酸になり、二酸化硫黄は硫酸になる。炭化水素は、非常に複雑な酸化反応を経て、種々のアルデヒドやカルボン酸になる。

 酸化という言葉が出てきてしまった。酸化とは、より多くの酸素を結合した物質に変化すること(あるいは電子を奪われること)であり、「酸化される」ことと「酸性になる」こととは、概念としてまったく別物なのだが、言葉が似ているのでまぎらわしい。

 さて、ここまでは気相反応だが、こうしてできた酸は、やがて集まって微小な粒子になる。硝酸塩エアロゾル、硫酸ミスト、有機エアロゾルなどの形で空中を漂い、遠くまで運ばれる。ヨーロッパ諸国から国境を越えて運ばれる大気汚染物質が、北欧で湖沼の酸性化を引き起こしたり、アメリカ合衆国東部の汚染がカナダに及んだりと、大気汚染物質の長距離輸送は、地球規模の環境問題となっている。

 空気中に排出された一次汚染物質や、空気中でできた二次汚染物質は、一部はそのまま地表に降下する(乾性沈着という)。また一部は、雲粒や雨滴に取り込まれてから降下する(湿性沈着という)。その結果、いろいろな被害が生じる。

 酸性雨によって土壌が酸性化すると、植物の栄養となるべき塩類が流出する。土壌生態系にも変化が起こり、土地はやせてしまう。酸性化した湖沼では、魚類の生殖機能が異常になったり、餌となるプランクトンが死滅したりして、魚類の絶滅など生態系への影響が現れる。植物への直接的な影響では、森林被害が問題になっている。樹木が酸性雨や酸化性物質を浴びることにより、葉の黄化、落葉、枯死が広大な面積にわたって発生している。人体に対しては、酸性雨により目や皮膚に刺激性の痛みを受ける被害が報告されている。都市では光化学オキシダントによる健康被害が大規模に発生した。建築物、とくに遺跡や石像が、酸性雨によって腐食するという被害や、コンクリートの強度低下という影響も深刻である。

 酸性雨に対して行われている対策は、第一に排出削減である。原因となるイオウ酸化物や窒素酸化物の排出は、脱硫・脱硝装置といった技術的対策によって、大幅に減らすことが可能であるが、排出後の大気中での変化については、まだ不明な点が多い。すでに酸性化した土壌や湖沼に対しては、石灰やアンモニアを散布して中和するという方法がとられている所もある。

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