この記事は、『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)に連載されたものを、編集部のご好意により許可を得て、著者の責任において転載しています。

『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)1999年3月号

文科系のための科学講座

環境科学編

【3】

環境化学物質

 私たちの身の回りには、さまざまな化学物質が充満している。言うまでもなく、空気の本来の成分である酸素・窒素・水蒸気も化学物質であり、室内にただようバラの芳香も、実体は化学物質である。あなたの恋人だって、水・蛋白質・核酸など想像を絶する無数の化学物質が、ある秩序のもとに全身60兆個の細胞と体液を構成し、それらが合わさってまとまった個体をなしているものであるから、化学物質の巨大なかたまりであることに違いはない。しかしふつう、化学物質という言葉は、「化学反応によって人工的に作られた物質」か、「化学的な手段によって研究される物質」という、どちらかの意味で用いられている。環境中にある化学物質が問題になるのは、それが人間や社会に害を及ぼす場合である。

 人間はこの100年間に、15万種類の化学物質を合成してきたといわれる。製品として合成された物質もあれば、無用の副産物として排出された物質もある。それらの物質による人体への影響は、まず「公害」として注目された。石炭を燃やすことによる煤煙から始まり、大気には亜硫酸ガス、一酸化炭素、窒素酸化物などの有害物質が放出された。それらが健康問題を引き起こし、やがて厳しく規制されるようになった。河川や海の水は、鉱山から出る鉱毒や、工場廃水、生活廃水によって汚染された。そのようにして環境中に放出された化学物質は、毒性によって人間の健康を損ねたり、生態系や気候を変化させることによって環境に悪影響を及ぼしたりしている。  故意に添加された物質も、人間に害を及ぼした。食品添加物の害は、よく知られている。農場で使われた農薬が、食品中に残留することも問題になっている。玩具や日用品の素材や塗料も、毒性を持っている場合がある。従来の有毒物質という尺度では測れない、環境ホルモンという新しいタイプの環境化学物質も知られるようになった。

 「化学物質過敏症」もまた、環境中の化学物質を原因とする、新しいタイプの疾患である。人体が多量の有害化学物質にさらされたとき、あるいは長期にわたって微量の有害化学物質にさらされたとき、体内にあるレセプターが、その物質に対する過敏性を獲得してしまうことがあり、そうなると、後に同系統の化学物質に接触したときに、きわめて微量の接触であっても複雑な臨床症状が出現するというのが、化学物質過敏症のメカニズムとして考えられている仮説である。

 化学物質過敏症という疾患が実在することは、現在ではほぼ確実に信じられているが、この病気は研究の歴史が浅く、臨床データが不十分なことから、心因性の病状にすぎないという疑いも払拭されていない。環境化学物質の急性毒性に関して蓄積されてきた知識や研究手法は、化学物質過敏症のような亜急性・慢性の病状にはうまく応用できないものらしい。

 化学物質過敏症の現れ方は、薬物依存症に似ている。単一の原因で慢性疾患が発症することはまれであり、体内に十分な量の「毒」が蓄積して限界を超えた時点で、初めてさまざまな症状が一気に現れる。症状が多数の臓器に出現し、どの臓器にどのような症状が現れるかは患者ごとにまちまちであるという点も、化学物質過敏症の特徴であり、従来の毒性学的な理論では説明することが難しい。

 「シックハウス症候群」あるいはシックビルディング症候群は、化学物質過敏症の一形態だと言える。現代の建築物という、断熱性と気密性の高い空間に、人工的な物質で製造・加工された建材や家具が入れられ、ホルマリン(ホルムアルデヒド)をはじめとする化学物質が充満することが、この病気を引き起こす。塗料や接着剤から出る有機溶媒、殺虫・防虫剤、防炎加工剤なども複合して原因になる。これらの物質への感受性は、人によってまったく異なっている。従来は安全とされた濃度、あるいは大多数の人になんら症状を引き起こさない濃度であっても、化学物質過敏症の人には湿疹・呼吸困難など、激しい不快感や健康障害が現れることがある。

 シックハウス症候群に対しては、危険な化学物質を使用していない建材を採用する、換気に熱交換器を用いて暖房器具から発生する有害物質を減らす、積極的に有害物質を除去するといった対策が講じられている。病院で患者を治療するために、化学物質の影響を排除したクリーンルームも開設されている。化学物質に満ちた通常の環境で、化学物質過敏症の患者を研究することは難しいが、研究用のクリーン施設が作られたことにより、今後は日本でもこの疾患の研究が進むものと期待される。

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