この記事は、『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)に連載されたものを、編集部のご好意により許可を得て、著者の責任において転載しています。 |
『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)1999年1月号 |
文科系のための科学講座環境科学編【1】環境ホルモン |
環境ホルモンという、新しいタイプの環境汚染物質が問題になっている。「環境ホルモン」という言葉自体は、日本で作られた造語であり、欧米で数年前から「環境エストロジェン」(environmental estrogens)と呼ばれていたものに相当する。エストロジェンとは女性ホルモンの総称であり、人の体内で自然に作られるエストラジオール17β、エストロン、エストリオールなどのエストロジェンは、女性の二次性徴を発達させたり、卵胞を成長させたり、子宮内膜を増殖させたりといった、生殖のために重要な働きをしている。エストロジェンに似た作用をもつ物質(エストロジェン様物質)は、自然界にも存在し、たとえば香辛料などに種々の植物エストロジェンが含まれているが、それらは摂取しても自然に排泄されるため、とくに問題とされていない。問題なのは、人間によって作り出され、環境中にまきちらされている化学物質である。
これらの物質が、野生動物の生殖異常を引き起こしていることが、1950〜60年代から疑われるようになった。生殖行動の異常、孵化率の低下、奇形の増加、生殖器のメス化などが、世界各地で報告された。人間でも、精子数や精液量の減少がみられ、その結果として、男性に起因する不妊率が高まっていると言われている。女子の月経が早まっているという報告もある。 牛の育ちをよくし、牛乳の量を増やすために、人工のエストロジェンを飼料に混ぜるということが、かつて盛んに行われていた。それもまた人体や野生生物に移行し、エストロジェン様の作用を及ぼしたと考えられる。 より正確には、環境ホルモンのことを「内分泌かく乱化学物質」(endocrine disruptors)という。人体の内分泌器官で作られているホルモンと同じものが、環境中に含まれているというわけではない。本物のホルモンとは化学的にまったく素性の違う、意外な物質でも、人体にとりこまれてホルモン様の作用を引き起こすことがある。そのような「内分泌かく乱作用を有すると疑われる化学物質」として、環境庁は約70物質のリストを発表した。その大半は、殺菌剤、殺虫剤、除草剤、船底塗料、樹脂の原料などとして工業的に製造された物質だが、ダイオキシン類のように、非意図的生成物として環境中に放出されたものもある。 現在、次のような物質が、環境ホルモンとしてとくに注目されている。 ・DDTとBHC――かつて農薬として大量に散布された。 ・ポリ塩化ビフェニール(PCB)――変圧器、ノンカーボン紙などに使用された。 ・フタル酸エステル――塩ビなどプラスチック製品の可塑剤として使われている。 ・ビスフェノールA――ポリカーボネートなどの樹脂の原料として使われており、プラスチック製の食器からビスフェノールAが溶出するという問題が報道されている。 ・ダイオキシン類――農薬の製造、ゴミ焼却、紙の漂白過程などで副次的に生成される化学物質であり、210種の同族・異性体がある。なかでも毒性が最も強いものが、2,3,7,8-四塩化ジベンゾ-P-ジオキシン(2,3,7,8-TCDD)であり、種々のダイオキシン類の濃度は、この物質を基準とした濃度(2,3,7,8-TCDD当量濃度)に換算される。 ・スチレンの2及び3量体――発泡ポリスチレンなど、スチレン樹脂を製造する際の未反応物であり、カップ麺の容器から溶出するという問題が報道された。 ダイオキシン類は、まずベトナム戦争の「枯れ葉剤」として有名になった。その当時は、催奇形性・発癌性・急性毒性というレベルの問題として、厳しい環境基準が定められ、対策が講じられてきた。しかし環境ホルモンとして、内分泌系や免疫系に及ぼす深刻な作用が知られたことにより、従来よりさらに何桁も厳しい基準が求められるようになった。 ほとんどの環境ホルモンは、法律(大気汚染防止法、水質汚濁防止法、廃棄物の処理及び清掃に関する法律、食品衛生法、有害物質を含有する家庭用品の規制に関する法律、化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律など)により規制され、安全基準が定められているが、環境ホルモンへの取り組みでは、ppm(100万分の1)やppb(10億分の1)ではなく、ppt(1兆分の1)という単位で測られるごくわずかな濃度でも、個人と人類にはかりしれない害を及ぼすという可能性を考えなくてはならない。
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