この記事は、『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)に連載されたものを、編集部のご好意により許可を得て、著者の責任において転載しています。

『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)1998年12月号

文科系のための科学講座

遺伝子工学編

【12】

ヒトゲノム計画

 ヒトは約10万個の遺伝子を持っていると言われている。DNAに書き込まれた「文字」の数にして、約30億文字にあたる。それをすべて解読しようという「ヒトゲノム計画」が、1988年からアメリカを中心に、世界各国の協力によって進められてきている。

 「ゲノム」とは、それぞれの生物が持っている遺伝子のすべてである。1個の受精卵を思い浮かべると、わかりやすいだろう。受精卵には、卵子が持っていた遺伝子と、精子が持っていた遺伝子がすべて含まれている。そうやって親から受け継がれた1組の遺伝子が、ゲノムである。個体発生の途上、受精卵が分裂をくりかえして生物の体を作って行くとき、遺伝子も忠実に複製されて、それぞれの細胞に分配される。ヒトの体は約60兆個の細胞からできているが、赤血球などごく一部の細胞を除いて、どの細胞も受精卵と同じ完全なゲノムDNAを持っている。しかし、その中から異なる遺伝子のセットが選ばれて活動しているために、皮膚の細胞、神経の細胞、肝臓の細胞など、形も機能も異なったものに分化している。ヒトがヒトとして成長するのは、ヒトの細胞がヒトのゲノムを持っているからであり、別の動物は別のゲノムを持っているために、別の動物として成長する。

 ヒトのゲノムをすべて解読することは、受精卵から成体にいたる発生分化の複雑なプロセスを解明するための強力な手段となる。また、4000種類以上あると言われる遺伝病は、ゲノムに生じた変化が原因となっている。ヒトゲノムの解析が進んだなら、そのような病気の診断や治療も進歩することだろう。癌、循環器疾患などの病気には、多数の遺伝子が複雑に関わっていると考えられているが、そのような病気のメカニズムも、具体的に関与する遺伝子を取り出すことによって明らかになると思われる。直接的に遺伝子が関与している病気だけでなく、様々な病気の診断、治療、薬の開発などにも、ヒトゲノムのデータベースは役立つと期待される。いったんヒトのゲノムを解読する方法が確立されたなら、他の生物に応用することによって、品種改良などにも画期的な変化が起こることだろう。

 ヒトは、複雑な生物である。大腸菌などのバクテリアには、遺伝子は4000個ほどしかなく、すでに完全な解読がすんでいるが、そのペースでヒトのゲノムに取り組んだ場合、1つの研究グループだけでやっていたのでは3万年ほどかかる計算になる。そこで、一方では国際協力による分担で作業を進めようとしており、それと同時に、新しい分析方法の開発や自動化によって解読を早めようとしている。

 ヒトゲノム計画は、約15年がかりのプロジェクトとして発足した。まず最初は、5年ほどで「マッピング」を行う。30億文字の遺伝子を解析するために、所々に目印をつけるということだ。次に、目印に従ってDNAの断片を作り、それらを分類整理する。その間に、配列決定を効率よく行うためのシステムを開発しておき、断片に書かれている文字を解読して行く。以上がヒトゲノムの「構造解析」と呼ばれている側面である。

 「機能解析」という側面では、細胞の中でどんな遺伝子が、いつ、どのように働いているかを明らかにする。日本ではこの機能解析を重視しており、そのためにcDNA解析計画を実行している。cDNAとは、遺伝子の活動によって作られるメッセンジャーRNAを、逆転写酵素によってDNAに変換したものであり、それを分析することによって、細胞内で実際に働いている遺伝子を調べることができる。まず方法論として、良質のcDNAライブラリーを作り、それを分類整理することを行う。次に実際のヒトの細胞からできるだけたくさんのcDNAを集め、その構造を解読する。そして、どのような遺伝子が、いつ、どの組織で、どの発達段階で、どんな生理状態のときに、どれだけ働いているかのカタログを作る、という作業が進められる。

 この膨大な解読作業では、コンピュータを駆使して解読結果をデータベース化することが必要であり、そのために行われている情報処理技術の開発もまた、生物情報科学の発達という副産物を産もうとしている。

 遺伝子の研究には、なにもヒトというきわめて複雑な生物を対象とする必然性はない。むしろもっと単純な生物を用いたほうが、研究は早く進むかもしれない。家畜や作物などのゲノムを解読することも有用である。しかし、いずれにせよ莫大な労力と時間が必要とされることから、国際協力によるプロジェクトの対象として、「われわれ自身」であるヒトのゲノムが選ばれた。ヒトのゲノムを研究することは、われわれ自身の健康と幸福に直接役立つ。しかもその解読を行うという作業そのものが、広く生命一般の研究に大きなインパクトをもたらすものと期待されている。

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