この記事は、『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)に連載されたものを、編集部のご好意により許可を得て、著者の責任において転載しています。

『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)1998年11月号

文科系のための科学講座

遺伝子工学編

【11】

生命倫理

 1996年にクローン羊のドリーが誕生して以来、新聞紙面には「生命倫理」という言葉がいっそう頻繁に飛び交うようになった。最近の議論は、クローン人間を作ることを禁止するという一点に集中している。

 ドリーを生み出したイギリスでは、それ以前から、ヒト個人のクローンを作ることは違法だと考えられていた。研究者自身も、ヒトへの応用は「倫理的に絶対にやってはならないこと」と述べている。アメリカでは、公的資金による研究を禁止する大統領命令に続いて、97年6月に、民間・公共をとわず適用される「ヒトのクローン化を禁止する法案」(Cloning Prohibition Act of 1997)が提出された。人間の生殖細胞を使った研究に連邦政府の資金を投入しないという政策も継続される。ユネスコの国際生命倫理委員会は、97年10月に「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」(Universal Declaration on the Human Genome and Human Rights)の草案を発表したが、そこでも人間のクローン作りが禁止された。ローマ法王庁もまた、禁止を求める声明を出している。日本では、97年10月から科学技術会議の下に生命倫理委員会が設けられていたが、去る6月、小委員会において人間へのクローン技術の応用を禁止するという提案が行われた。

 禁止する理由としては、安全性と倫理面の問題が挙げられている。ドリーは、300個もの受精卵を費やしてようやく誕生した。クローン動物の死亡率が高いことも報告されている。人間に応用する医療技術としては、まだ未成熟である。クローン人間を作ることが、倫理的に受け入れられる行為かどうかという判定は、かなり漠然としているように思われる。体外受精による赤ちゃんが初めて誕生したときにも、人間のすべきことではない、あるいは神への冒涜であるという議論があった。20年を経た現在では、少なくとも夫婦間の人工授精は、社会的に完全に容認されている。クローン人間についても、さまざまな誤解や情報ギャップが取り除かれた後には、そのように社会に容認されて行くのだろうか。現状では、科学者をも含めて、容認すべきであるという意見はきわめて少数である。各国の意見は、クローン人間を作ることが「人間の尊厳に反する行為」であるという点で一致している。

 クローン人間の話ばかりが長くなってしまったが、生殖に人間の手が加えられるようになったことにより、他にもさまざまな問題が生じている。体外受精では、生まれた子供の地位が法的にはっきりしないという問題もあり、代理母の親権が裁判で争われている。妻以外の卵子によって生まれた体外受精児や、とくに代理母が卵子を提供したという事例になると、従来の親子関係や養子などを定めた法律との関係が複雑である。

 男女産み分けの技術は、胎児の権利や胎児に関する母親の権利といった、倫理的・社会的・法的問題を引き起こしている。胎児の遺伝子診断でも、診断の結果による産む・産まないの問題が生じる。生殖技術によって遺伝子を選別することは、弱者を切り捨てることであるという、反差別の視点もある。遺伝子の選別や、とくにクローニングによって、人類の遺産である遺伝子の多様性をそこなうことは、進化の歴史への逆行であるとも言われている。

 胎児の保護に関しては、医療のために胎児を利用するという技術も、重大な倫理的問題をはらんでいる。妊娠中絶された胎児の体を医療に利用することは、すでに行われており、たとえば胎児の脳組織を移植することにより、パーキンソン病を治療した例が多数報告されている。臓器移植用の材料としても、胎児は大きな可能性を持っている。そのような用途に使用するために、遺伝子工学を応用して「脳のない胎児」を作成するという技術が開発されている。この技術が、胎児の利用にまつわる倫理的問題を根本から解決するという意見もあるが、その一方でこの技術自体がきわめて深刻な倫理的問題を提起している。

 さらに、ここでは触れないが、死の判定や臓器移植なども、生命倫理における重要な問題である。

 生命倫理のキーワードは、「人権」と「公共政策」である。科学者のみが論じるべきものではなく、それどころか、科学者が中心となって論じるべきものでさえないのかもしれない。論議の前提として、科学者と社会との間で情報のギャップを埋めることが不可欠である。

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