この記事は、『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)に連載されたものを、編集部のご好意により許可を得て、著者の責任において転載しています。 |
『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)1998年10月号 |
文科系のための科学講座遺伝子工学編【10】ドリーとポリー |
石川県畜産総合センターでクローン牛「のと」と「かが」が誕生したというニュースは、まだ耳に新しい。クローニングによって作られた動物の個体は、一卵性双生児と同じように、まったく同じ遺伝子を持っている。そういう個体を必要なだけ何頭でも作り出すことができれば、同じ性質を持った良質の家畜を大量生産することが可能になる。
かつて1993年にも、日本でクローン牛の誕生が報じられたことがある。そのときの子ウシは、体細胞からのクローンではなく、1個の受精卵から育ち始めた胚を分割して、2頭のウシとして発育させたものであった。同じ受精卵から生まれた一卵性双生児なので、この2頭のウシも、お互いにまったく同じ遺伝子を持っていた。この方法では、1個の受精卵から最高16頭までの、同じ性質を持ったウシを誕生させることができる。 今年生まれたクローン牛が画期的なのは、受精卵ではなく体細胞から作られたクローン動物だという点である。成長した雌ウシの卵管から細胞を採取し、血清飢餓培養という特殊な条件下での培養によっていわゆる全能性(受精卵と同じように、どの器官にも分化できる能力)を獲得させた後、その細胞から核を取り出し、別に用意した卵子の中へ移し替えて、別のウシ(代理母)の子宮内で胚として育てたものである。成牛の細胞を用いた試みでは、世界初の成功であった(ウシ胎児の体細胞を用いたクローニングは、1998年にアメリカで成功している)。普通の交配による繁殖や、受精卵からのクローニングと違い、体細胞クローニングで生まれた子ウシに父親の遺伝子は混ざっていない。そのため子ウシは、お互いに一卵性双生児だというだけでなく、母ウシとまったく同じ遺伝子を受け継いでいる。 体細胞クローン動物の先駆けとしては、「のと」と「かが」より前に、1996年にスコットランドのRoslin Instituteで生まれたヒツジ、Dollyがいる。雌のヒツジの乳腺から細胞を取り、前述のように発育させたものであった。その誕生は、動物のコピーを生み出す技術の出現として、世界に大きく報道された。アインシュタインの細胞をもとに体細胞クローンを育てたなら、アインシュタインと同じ人間がもう一人できるのではないかと、話題を呼んだ。むろん、一卵性双生児どうしが同一人物でないことは、誰でも知っている。それと同じ意味で、アインシュタインの細胞からクローン人間が生まれたとしても、アインシュタインとはかなり違った人物に育つことだろう。体細胞クローニングは、同じ遺伝子を持つ「胚」を作る技術であり、同じ個体を作るものではない。その点さえ誤解しなければ、体細胞クローニングは動物の「コピー」を作る技術だと言うことができる。 体細胞クローニングでは、交配によらず、現に育っている動物と同じものを作ることができる。受精卵からのクローニングより、はるかに多数の子を作ることができる。また、細胞培養の段階で選別を行い、望みの形質を受け継いだ細胞だけを増殖させるという方向へ、技術を発展させることも可能である。 このRoslin Instituteでは、翌年、Pollyというヒツジも誕生している。Pollyは、ヒトの遺伝子が組込まれたトランスジェニック動物であった。ヒツジにヒトのホルモンなど(Pollyの場合は血友病の治療に用いられる血液凝固因子)を作らせて乳汁中に分泌させ、それを精製して患者の治療に用いるといった応用を目指している。別の応用では、動物にヒトの遺伝子を組み込むことによって、動物の臓器を人体への移植に使えるようにするという試みも行われている。 DollyとPollyによって、動物のクローニング(同じ遺伝子をもつ動物を複製すること)と、トランスジェニック動物(異種の遺伝子を導入された動物)という、それまで別々に研究されてきた技術が一体となり、新たな発展を見せることとなった。 今回の報道でも、人間への応用をめぐる論議が盛んであった。すでにイギリス、ドイツ、フランスでは、ヒトのクローン研究が法律で禁止されており、アメリカではクリントン大統領が、国の資金助成による研究を禁止する大統領令を出している。日本でもこの7月、文部省の学術審議会が、クローン技術のヒトへの応用研究を禁止する指針を決定した。畜産や医学にとって有用な動物のクローニングに関しては、研究開発はますます加速する勢いである。ちなみにDollyは、その後、普通の方法で子ヒツジを産んだ。 |
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