この記事は、『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)に連載されたものを、編集部のご好意により許可を得て、著者の責任において転載しています。 |
『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)1998年8月号 |
文科系のための科学講座遺伝子工学編【8】PCR |
PCRとは、ひとことで言えばDNAを「わんさか増やす」方法である。「80年代の最も革命的な新技術」と呼ばれ、1989年には Science 誌の The Molecule of the Year にも選ばれ、その特許権に3億ドルもの値がついたPCR法は、Kary Mullis らによって1980年に発表され、1993年のノーベル化学賞はこの発明の上に輝いた。現在、DNAを扱った書籍や論文で、PCRの文字を見かけないほうが珍しい。
DNAを増やすという操作は、遺伝子工学のほとんどあらゆる分野で必要とされる。遺伝子に関連した病気の診断、遺伝子のクローニング、前回述べたRFLPの解析、DNA塩基配列の決定など、遺伝子を研究するためにも、医療や生産に応用するためにも、まずどこかから手に入れた(あるいは合成した)微量の遺伝子を、純粋なまま十分な量にまで増やさなくては、次の仕事に取りかかれない。 PCRの原理は、単純である。DNA分子は、互いに相補的な2本の鎖がより合わさっている。これを1本ずつにほどき、それぞれを鋳型(テンプレート)にして相手方の鎖を合成する。できあがったらまた1本ずつにほどき、また合成する。これを何度も繰り返すことによって、元とまったく同じDNAを際限なく増やすことができる。つまり、DNAはもともと生体内で自己複製するようにできている分子なので、その仕組みを試験管内での反応に借用してしまうわけだ。 2本鎖のDNAをほどいて1本鎖にすることを「変性」という。変性させたDNAに、新しいDNAの材料となる物質(dATP、dCTP、dGTP、dTTP)を加え、さらにプライマーというものを加えてから、生物(細菌)から取ったDNAポリメラーゼという酵素を働かせる。プライマーというのは、この酵素が働くための足がかりとなる、短いDNA断片である。なぜこれが必要かというと、DNAポリメラーゼは、まったくの1本鎖から2本鎖を作る酵素ではなく、1本鎖をテンプレートにして、その上に2本めの鎖を伸ばす酵素なのである。そこで、元になる1本鎖は、末端のごく一部だけでも2本鎖になっていなくてはならない。このプライマーは、増やしたいDNAの配列の一部を解析することによって、人工的に合成したものを用いることが多い。1本鎖DNAに相補的配列を持つ1本鎖DNAを結合させて2本鎖にすることを「アニーリング」という。 以上のようにしてDNAを増やす手順をまとめると、まずDNAを変性させる。次にプライマーのアニーリングを行う。そこへ酵素を働かせてDNAの伸長を行い、できたDNAをまた変性させて次のサイクルが始まる。 原理は簡単だったが、この方法には難点があった。DNAを変性させるためには、94℃の熱を加えなくてはならない。いっぽうDNAポリメラーゼは酵素(タンパク質)なので、ふつうなら高温に会うと失活する(つまり煮えてしまう)。そこで1サイクルごとに酵素を足してやらなくてはならないが、そんなことをしていたのでは、操作の手間も費用も大変である。 イエローストーン国立公園に限らないが、温泉の中には、高温に耐える細菌が生育している。PCRを実用化に導いた鍵は、この熱湯に住む耐熱菌から得られた、耐熱性DNAポリメラーゼ(Taq DNA polymerase)であった。この酵素は、DNAが変性するような高温でも失活しないため、何度サイクルを繰り返しても減ることがない。しかも酵素が活性を発揮する温度も、ふつうの酵素(37℃前後)よりはるかに高い。 Taq ポリメラーゼを使うことによって、PCRの操作は非常に効率的になった。いったん必要な材料を入れてしまえば、あとは温度を94℃にする(DNAを熱変性させる)→55℃にする(プライマーをアニーリングさせる)→72℃にする(DNAを合成する)という、3段階の温度変化を周期的に行わせるだけで、DNAの量は1サイクルごとに2倍に増える。現在ではもちろんサーマルサイクラーという装置があり、この操作全体は自動的に行われている。最も一般的には、ピコグラム単位の量のDNAから出発して30回の増幅を行い、マイクログラム単位の量を手に入れる。何時間もかからない操作で10億倍に増えているわけだ。 言い忘れるところだったが、PCRは、polymerase chain reaction(ポリメラーゼ連鎖反応)の略語である。 |
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