この記事は、『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)に連載されたものを、編集部のご好意により許可を得て、著者の責任において転載しています。

『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)1998年6月号

文科系のための科学講座

遺伝子工学編

【6】

遺伝子操作とは何をすることか?

 遺伝子操作といえば、まず思い浮かぶのは、ヒトや高等動植物からいろいろな遺伝子を取り出して、細菌などの遺伝子に組込んで増殖させることだろう。この技術を使えば、ホルモンをはじめ、医学や農業などに役立つ貴重な物質を、思うままに大量生産することができる。遺伝子操作などというややこしいことをしなくても、ヒトのホルモンを作る遺伝子が欲しければ、それを持つヒトの細胞を培養すればよさそうなものだ。しかし一つには、そういう細胞を大量に培養することはかなり難しい。細菌や酵母を培養することにかけては、人類は数千年前にさかのぼる発酵や醸造という技術を持っている。バイオリアクターの中で、特定の物質の生産に適した培養条件を実現するというのは、この歴史の延長線上にある、比較的やりやすい仕事なのだ。またもう一つには、元の細胞に含まれている無数の遺伝子の中から、目的とする遺伝子だけを働かせることも容易ではない。その遺伝子だけを取り出して、微生物の中で働かせるほうが、技術的にも経済的にもはるかに優れている。

 遺伝子操作の具体的な方法はいろいろだが、基本的には、次の四つの段階が含まれる。まず遺伝子を取り出す。次にその遺伝子を微生物に組み入れる。微生物を培養して物質を作らせる。最後に、産物を集めて精製する。

 第一段階は、遺伝子を手に入れることだ。ヒトの遺伝子全体をくまなく調べて、目的の遺伝子を探し出すことは、膨大な労力を必要とする作業であるため、遺伝子そのものではなく、遺伝子が発現することによって作られるメッセンジャーRNA(mRNA)が出発点として使われる。たとえばヒトの膵臓で作られる、インスリンというホルモンを作る遺伝子が欲しいとしたら、膵臓の細胞を材料にして、細胞内で作られているmRNAを精製する。得られたmRNAは、インスリンを作るものだけでなく、他のいろいろな遺伝子に由来するmRNAが混ざり合っているが、遺伝子全体を調べることに比べれば、それでも目標はずいぶん絞られている。この中から目的の遺伝子を選び出して増やすための操作に“逆転写酵素”というものが使われる。

 逆転写酵素は、レトロウィルスという、ウィルスの一族が持っている酵素であり、RNAを元にしてDNAを作る働きをする。mRNAにこの酵素を働かせて、必要な材料を与えてやれば、mRNAと相補的な配列を持ったDNAが得られる。こうして得られるものを“相補的DNA”(cDNA)という。

 遺伝子をそのまま微生物の細胞に入れただけでは、増殖させることはできない。それには、微生物が持っている“プラスミド”という特別な遺伝子が使われる。プラスミドは、小さな環状のDNAであり、細菌の遺伝子の本体とは別に存在しているが、細菌が分裂するときに同じように増殖する。プラスミドの分子を切断して、そこへヒトの遺伝子を挿入し、元どおりにつなぎ合わせる。こうして作ったものを細菌に入れて培養すると、組込まれた遺伝子は細菌の遺伝子と同じように増殖する。このように、遺伝子を入れる器として使う小さな遺伝子を“ベクター”という。“バクテリオファージ”(あるいはファージ)という、細菌の中に住むウィルスの仲間も、プラスミドと同じようにベクターとして使われる。

 細菌が、たとえば20分に1回分裂するとしたら、1時間に8倍、半日もしないうちに数百万倍に増える。cDNAを組み込んだ細菌の細胞を1個ずつ別の容器に入れて、それぞれたった1個の細胞を出発点として培養することによって、目的とするcDNA分子に関して均一な集団が得られる。このようにして同じcDNAを増やすことを“DNAクローニング”という。

 以上のまとめとして“組換えDNA実験指針”にある用語では、微生物の細胞内で増殖できるDNA(ベクター)と、異種のDNA(たとえばヒトのインスリンを作る遺伝子)とを試験管内で結合させて“組換えDNA分子”を作成し、元の微生物(宿主)細胞に移入して増殖させることを“組換えDNA実験”といい、こうして作られた細胞を“組換え体”という。

 ここに述べたような操作は、もはや古典的と言うべきものになろうとしている。最近では、DNA合成装置を使って、欲しい遺伝子をじかに合成してしまうことも行われているし、後に述べるポリメラーゼ連鎖反応(PCR)法は、DNAを増やす方法として急速に普及した。ヒトゲノム計画も、ヒトの遺伝子の利用に関しては状況を一変させようとしている。

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