この記事は、『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)に連載されたものを、編集部のご好意により許可を得て、著者の責任において転載しています。

『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)1998年2月号

文科系のための科学講座

遺伝子工学編

【2】

染色体の発見からセントラル・ドグマまで

 19世紀になされた発見は、顕微鏡の発達と、染色法の発達に負うところが大きい。細胞の核が、ある種の染色剤にとてもよく染まることがわかり、この染色されやすい成分が、細胞分裂の際に寄り集まって、多数の粒子を形成することがわかった。よく染まる物質なので染色質 (chromatin)、それが集まった物体なので染色体 (chromosome) という、素朴な命名が今に受け継がれている。では、メンデルの「因子」すなわち遺伝子が、細胞核内の染色体にあると信じられるようになった理由は何か。要約すると、次のようになる。

 第一に、細胞内には大きさや形によって区別される多数の染色体があり、それらは同じものが2個ずつ対になっている。これは体内のあらゆる細胞に共通し、どの細胞も、同じ個数の染色体を持っている。第二に、細胞が分裂するときには、いったん染色体の数が2倍に増えてから、二つの新しい細胞に分配される。ただし生殖細胞を作る分裂に限っては、染色体の倍加は起こらず、体細胞に比べてちょうど半分の数だけ染色体を受け取った細胞が、精子と卵になる、これが受精によって合体すると、元の数に戻るわけだ。

 このように染色体は、メンデルが仮定した遺伝子とまったく同じやり方で、親から子へ受け継がれている。メンデルの優性の法則も、分離の法則も、これによって説明できた。

 1905年に性染色体が発見されたことによって、この仮説は目に見えるものになった。明らかに形の違うX染色体とY染色体が、人間の男女を決定していることがわかったのである。よく知られているように、受精によってXXという対を受け継いだ個体は女になり、XYという対を受け継いだ個体は男になる。

 化学分析により、染色体の成分はDNAとタンパク質であることがわかった。遺伝情報を担っているのは、どちらの成分だろうか。当時は、そのような複雑な情報を担うものは、当然、タンパク質という複雑な物質であると考えられた。タンパク質は20種類のアミノ酸が複雑に結合したものであり、一方DNAは、たった4種類のヌクレオチドでできていたからだ。

 それを覆したのは、T2というファージを使った実験だった。ファージというのは、ウィルスに似た微細な生物で、細菌の細胞内に入って増殖する。ファージの体は、タンパク質とDNAでできている。T2が、細菌の表面に取りついて感染するとき、細菌の細胞内には、DNAだけが送り込まれ、タンパク質は細胞外に残る。そして細胞内に入ったDNAは、元と同じT2を作るためのタンパク質を生産し始める。

 どちらの成分が細胞内に入ったかを調べるためには、放射標識法という新しい技法が使われた。タンパク質はイオウの原子を含むが、DNAは含まない。逆にリンの原子は、DNAのほうにだけ含まれる。そこで、放射能を持つイオウを与えて増殖させたT2と、放射能を持つリンを与えて増殖させたT2を、それぞれに感染させて、感染後の細菌の持つ放射能を測定してみると、細菌には放射性のリンだけが取り込まれていたのである。

 ハーシェーとチェースによる、この1952年の発見によって、遺伝子の本体としてのDNAの地位は確定した。その翌年には、前回も述べたように、ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を決定する。そして1957年に、クリックとガモフが、いわゆるセントラル・ドグマを提唱する。この数年間の科学者たちの活発さは、異常なほどであった。

 さて、セントラル・ドグマである。ドグマという言葉を嫌う人々もいたし、すべてがドグマに従ってはいないという反証もあがってはきたが、セントラル・ドグマは、1957年当時の遺伝子の知識の集大成であり、その後に発見された例外も、原則があってこその例外と言える。クリックとガモフは、次のように主張した。

●DNAのヌクレオチド配列が、タンパク質のアミノ酸配列を決定する。

●遺伝情報の流れは、DNAからmRNA、mRNAからタンパク質への一方通行である。

 次回は、この仮説をもう少し詳しく説明してから、1960年代へ話を進めたい。

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